こんにちは、Lです。
今回はインチキ宗教の闇をあばいて、信者に目を醒ましてもらおうと思います。
特に、発達障害者や何かしらのマイノリティな人間は陥りがちな罠だ。
Contents
かつてドップリはまって、脱した私の結論
①あの世があるかも知れないけど、それを正しく説明している人は1人もいない、です。
②人にしたことは、人から仕返されても仕方ない。
③世の中はギブアンドテイク。
くらいを踏まえて生活すれば良いと思う。
伝統的な宗教については、良くも悪くも「哲学」だと思う。それ以上でも以下でもない。
「こう生きたら幸せになるのではないか」と、それぞれの教組が考えついた結論。
でも、答えは人の数だけあっても良いと思うしね。その程度の、曖昧なものだろう。
いろんな人の結論を聞いて、納得したところだけイイとこ取りすれば良いと思う。
私はというと、かつて生きづらさから結構有名な新興宗教にどっぷり入っていた。(オハズカシイ)
私はマイノリティーな人間なのだが、世論や科学的進歩に合わせて教組サマ(笑)の意見がコロコロ変わるのをみて、嫌になった。
中毒性についてはこちらから↓
あの世はある?ない?を議論する上で大事なこと
あの世というファジーなものを議論しても、それがある?無いか?は結論が出ない。
ない派も、ないことの証明も難しい。
ある派も、「でも、こう考えたらあり得るよ?」といくらでも解釈できるから。
注意すべきは、ある派に「あの世・超能力があって欲しい」と何かにすがりたい弱さがないか?
私が言いたいのは、この精神的脆さだ。
あの世の有無を議論する前に、フラットな健全なメンタルで議論するべきだ。
私も、人間関係が上手くいかない時は、スピリチュアルに出会いそれに一時的に救われた。それが論理的かどうかよりも、それが真実でないと自分が辛い。だから、理屈をこねくり回してでも、教組が唄う不思議な世界があると信じていた。
だからまずは、自信をつけることからだ。そうでないと、建設的なディベートが出来ない。宗教から抜けるのもオナ禁を勧める。
人によっては筋トレが効くかもしれない。やり方はなんでもいい、とにかく根拠が無くていいから自信をつける事だ。
私は辛い時こそ、オナ禁している。
私の場合はオナ禁(推奨はオナ減)で根拠のない自信を得て、インチキ宗教から脱することが出来た。
「根拠なく生きるなんてバカみたい」と思うかもしれないけど、世の中の健全に生きている人はこの状態で生きている。
セロトニンという物質だけで説明がつくか分からないが、よく言われるのは「まあ、なんとかなるっしょ(セロトニン担当)」と「いいや、棍詰めて考えよう」の2つの脳回路があるそうだ。これが、ほどほどに働いて、適度なリスク想定・回避が出来るのだ。つまり、ほどほどに根拠がない自信があることは大事なのだ。
精神的に脆い時の私の考え
実際、精神的に不安定な時と後では、考え方がまるで変わった。
この変わり様を是非とも紹介したい。
①昔の人間は、生きていくために第六感があったのだろう。それに基づいた理念で宗教はできている。今の第六感が無くなった人間にはわからないだけで、あの世は存在しうる。
②私「未来が分かるなら、私の未来を教えてください」
教組「人の未来に干渉するのはタブーです、この世は学びの場であり、せっかくのあなたの学びの機会がなくなってしまうから」
私「なるほどー」←
とかね。なんとでもこねくり回して言える。
③正負の法則があって、人間は誰しも人生の良いこと嫌な事はプラスマイナスゼロだ。
でも、アフリカの飢餓の子供に正負の法則なんてあるの?とか疑問に思っても、それは修行が進めば理解が得られる。推して知るべしなのだ。と良いように捉えていた。
健全なメンタルになった後の私の考え
今となっては目が醒めました、私の宗教の見解を書きます。
世にインチキ宗教がまかり通っていることに、「ホンモノ」の宗教はどう思っているのか?
どっかの密教とか、正しい宗教があるなら、空を飛ぶでも、予言をするでも良いから、悟りの境地の超科学的なナニカを見せて欲しい。インチキとの違いってヤツを見せて欲しい。
飢餓で死んでしまうほど苦しんでいる国がある。
苦行を重ねることで、念動力を手に入れるなら、アフリカの貧しい子供達はサイコキネシスで宙を浮いているだろう。それならYoutuberにでもなればいい。広告収入で裕福にもなるだろう。
昔なら、文化人の未開の地が残っていて、そこにはもしかしたら念力で何か出来る人間がいるかもしれないとも考えられたかも。ファンタジーとしても面白いしね。
でも現在は、未開の地なんてほぼ無いだろう。逆の立場から考えれば、念力を得た教祖がいるなら、Youtubeを使って自分の信仰の素晴らしさを広めたら良いだろう。念力で浮く浮遊系Youtuberになれば良い。
でもそんなのないよね?だから、超能力なんてありません。Q.E.D.
宗派によって全然教えが違う宗教
それに、こちらの宗教では南無阿弥陀仏を唱えたら成仏しますよ。
こちらの宗教では踊ったら成仏しますよ。
宗派によって言っていることが全然違うのもおかしな話だと思う。「それでいいのか?」と思ってしまった。
飢餓とか、戦争とかでまともに働いても、人生を天寿まで全うできない中、昔の人間は宗教を信じることで、この世で惨めでも救われると信じたかったのだろう。
そう、昔の人は宗派によって言っていることが違くても、仮に違和感を感じても、何かにすがりたかったのだろう。
仮にあったとして社会的弱者に救いになるあの世なのか?
せめてそうであって欲しいけど、そうとは限りません。実は、自らの臨死体験からあの世があると考えた方が辻褄がつくと主張する脳科学者はいる。でも、こういう話に変な希望や曲解を持たないためにも、まずは自分に自信をつけることからだ。
修行僧は低血糖のオナ禁戦士?
私の勝手なイメージで修行僧は、禁欲に励み断食して念力?を身につけるイメージがある。
私は、30歳直前まで童貞だったし、250日以上オナ禁した事があるが、魔法は全く使えそうになかった。←
脳科学的に考えれば、断食は低血糖状態になる。脳内ホルモンが変わるから思考内容が変わる。完璧主義になるそうだ。
そして、完璧であろうとすると、理想を追い求めると、他との協調を許せなくなるのでは?
頑固親父が味に妥協をしないでラーメン店を開こうと思ったらどうだろうか?
スティーブ・ジョブズが良い製品のため妥協しないでいたから、エンジニアがいくらか離れて言ったという話は有名だ。
まあ、それはそれで良い。問題は、そんな人間が作る自分にも他人にも厳しい理想の世界像・人間像は、大衆向けにオススメできるものなのか?ということ。
個人的な話だが、オナ禁をしていると(完璧主義)≒(理想が高くなる)のだ。何かを成し遂げようとする時に、他人と考えが相入れなくても、「別に自力でやりきってやる」と我が道を突き進みがちだ。それが正しい方向なら良いのだが、他人から理解を得られずに、あらぬ方向へ自分で突き進んだらどうなのかというリスクはつきものだ。
だから正直、私は全宗教をあまり信頼していない。
ある意味、女性は可哀そう
でも、女性がすがりたくなるのはわかる気がする。
大多数の女性は、家庭に入って、大事な夫や子供を守りたいだろうし、献身的な奉仕や愛情をかけることが女性の幸せではないかと思う。(私は古風な考えをする人間だ)
夫と結婚した上での、つまり相手あってで一人でなんとか出来る話ではない。
だから、女性が宗教やスピリチュアルなどにハマってしまうのは分からないでもない。
男の場合は、仕事に生きるって生き方もできるから、まだ救いようがある。
この打開策は、心身共に健康な野郎が増えて、女性を幸せにしてあげることだと思う。
それにわずかでも、私のブログが役立てば幸いだ。
そもそも、男女で理想的な生き方は違うのでは?
宗教の世界ではこういう話をほとんど聞かない。これも、私が宗教を胡散臭く思う理由の1つだ。子供を精神的に成熟させるためには、それぞれ違った役割があり、男と女はそれに特化するべきと思うから。これは別に男尊女卑ではない。
(ただ、今はLGBTの人もいる。少なくとも、一方が厳しく躾ける時は、もう一方は優しいアフターフォローをするようなある意味飴と鞭に特化した役割分担が必要だ。
今は、褒めて伸ばすが良いと科学的に根拠があるだの言われてるが、ゆとり教育が見直されたかのように、いずれ、「時には厳しいことも必要」路線へ軌道修正されると予想する。)
宗教に限らず、現代のジェンダーフリーな風潮はもちろん良い面もあるが、どこか違和感も覚えるのだ。
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